元文年間(1736〜40年)沼波五郎左ェ門(号弄山)が四日市近郊の小向にて築炉作陶したのが萬古焼のはじまりです。その作品は茶陶が多く赤絵にすぐれ、文様には更紗などの異国趣味を取り入れて「弄山萬古」と称しました。のちに江戸小梅の別邸に宝歴年間(1751〜63年)窯を築き、将軍家の数寄屋道具の御用を受け「江戸萬古」の名称で人気を博しました。弄山没後の天保2年(1832年)森有節は弄山ゆかりの地、小向に窯を再興。
「有節萬古」と称して煎茶器や酒器を多く焼き、独創的な手法で萬古焼の一紀元を画しました。一方、文政12年(1829年)三重郡東阿倉川村(いまの四日市市東阿倉川)の唯福寺で信楽出身の陶工上嶋庄助が開窯、ロクロ師らを雇い日用食器を焼きました。弘化(1844〜48年)のころ当地の末永の山中忠左ェ門が研究に没頭し職人を集めて急須を作らせました。
時代の変遷はあれど弄山が永久に伝わるべき作品として「萬古」または「萬古不易」の印を押したのが萬古焼の起源と云われています。
そして弄山没後約2世紀半、四日市萬古焼は昭和54年、国の伝統的工芸品産業に指定されました。